盲腸になった時の話
盲腸になったのは三年前のことだろうか?うろ覚えなのでわからないが多分そうだと思う(池沼)
当時わたしは高校生だった。そう考えると感慨深く、ちょっとおセンチな気分である。
盲腸になった日の朝、わたしは右腹部を襲う謎の違和感に苛まれていた。
起きがけからそんなコンディションだったので、テンションはもはやマイナスだった。
そして、「なんかお腹が変」とぼそっと呟いた私に母は「膀胱炎じゃないの?」と言い、猪苓湯(膀胱炎の薬 )を差し出してきた。
寝起きの機嫌の悪さ+謎の痛み+明らかに違う薬を渡された怒りでわたしは「は?(威圧)こんなもん効くわけないやろもうえぇわ学校行くわ」とプンスカしながら登校した。馬鹿である。学校へ向かう途中、いよいよ盲腸は本格的に始動し始め、この当たりからもやもやがズキズキに変わり始めた。
(もしやこれは、、、)
この時、わたしは「盲腸なのでは」と思い、クラスの友人に「これさ、、、めっちゃいたい、盲腸かな?」と聞いてみたのだが、「うーん盲腸だったら来れないと思う」と至極真っ当なことをいわれ(まぁ来たのだが)「せやな」と思いわたしは自分の席に戻った。
幸いこの日は授業が2時間目までしかなく、不幸中の幸いだったのかもしれない。そして、下校の時には盲腸はヒートアップし、最終局面を迎えようとしていた。
例えるならば、家を出る時は幼稚園のお遊戯会レベルが下校時には本場スペインのフラメンコ並の進化を遂げていた。
まるで内臓を刃物で刺され、熱した鉄パイプを当てられているかのような痛み。
それは歩く度に襲ってくる。
そんな中でもわたしは(いまマサイ族みたいにジャンプしたら多分しぬな)などと意味のわからない妄想をして、笑っていた。そしてやっとのことで家に着くともはや腹の痛み具合は白熱していた。ズボンすらヒィヒィ言いながら履いたほどだった。母は「だから薬のめっていったでしょ!」と怒っていた。
わたしは母の運転する車に揺られながら近くの内科へと向かった。
高校生にもなってわたしは内科の待合室で号泣した。痛みは鉄パイプや刃物どころではなく、右腹部に核ミサイルでも撃ち込まれたのではと錯覚する程だった。
1時間ほどして診察室に呼ばれ、泣きながら先生にお腹を触診される。
お腹をトントンと叩かれながら「ここは?」「じゃあここは?」などと言われながら痛みが発生している場所を特定していく先生。盲腸たちにとってはアノニマスくらいの脅威だと思う。
先生はやさしく「ここがいたい?」と先ほどフラメンコ会場であり今は核ミサイルが撃ち込まれた場所を押してきた。
先生が手を離した瞬間、痛みが猛烈に遅い「タナカッ!イタイ!」などと絶叫した。
痛みによるパニックでわたしはお腹と田中を言い間違えるという奇跡を起こし、母は笑っていた。
先生はそんなわたしをみて「憩室炎かもしれない、、、」と真剣な眼差しで語った。「すぐに大きな病院へ!」
医療ドラマでみたあのシーンが繰り広げられている。わたしは感動した。
先ほど田中で笑っていた看護婦さんも慌てふためきだし、近くの大学病院へ急患が行く旨を伝えるために電話をし始めた。しかし、一向に繋がらない。無能である。
やっと繋がったと思いきや、調子が悪いのかまったくお互いの意思疎通ができず、普段は温厚で優しい先生が「ちゃんとかかってからもってきて(ガチギレ)」と看護婦さんに怒っていた。
わたしはそれをみて笑ったせいでまた腹を痛めた。
母は「あっやばい」と思ったのか急に怒るのをやめ、事態が急展開を迎えたことを悟ったのか、なぜかわたしの腹にそっと おさるのジョージのタオルをかけはじた。そんな小さなエテ公のタオルをなぜかけたのか?未だにそれはわからない。
あれよあれよという間に紹介状をわたされ、大学病院へとむかった。
そこでメガネ先生に診察され、メガネ先生は半笑いで「緊急入院です!」と宣言した。
私と母に激震が走った。
実は大学病院へ向かう車内で、「幼なじみのNちゃんも盲腸かかったけど、お薬でおわりだったみたい」と聞いていたので、まさか入院だとは思わなかったのだ。
緊急入院、その言葉を聞いた時わたしは愕然とした。今日帰宅出来るくらいの心持ちでいたのに。
看護婦さんたちは私のために部屋の準備をしてくれ、母は一度自宅にわたしの入院セットなどを作りに帰り、当の私は母が「あっ、先週わたしインフルで~」などと余計なことを口走ったため、鼻に綿棒を突っ込まれていた。三重苦である。鼻も、腹もいたい。加えて熱も出てきた。平成のヘレンケラーは私ではないか?とその時はおもった。
病室は私以外全員おばあちゃんだった。
「これが少子高齢化か、、、」と意味不明なことをおもいつつ、ベットに寝転がった。
しかし、痛くて痛くて眠れない。わたしは速攻ナースコールをおし、痛み止めをくれと訴えた。「はぁいわかりました」とにこやかに消えていく看護師。
しかし、看護師がもってきたのは薬ではなく、そこそこでかい注射だった。今思えばあれは麻酔の類だったのだろうか?
筋肉注射をされ、わたしは痛みから解放された安心感と体をおそう倦怠感に勝てず、そのまま眠ってしまった。
2日目
痛みはほぼ皆無になっていた。どうやら昨日からずっと盲腸を散らす点滴をしているらしい、どうりで右腕に違和感があると寝ている時から思っていた。
手術で取るほどの大きさでもないし、女の子だから傷が遺るのはかわいそう(哀れみ)という先生のご意向によって、点滴になったらしい。
ほーん、手術じゃないならえぇわ。
盲腸って案外楽やなぁと思ったのも束の間、栄養士がわたしのところにやってきた。
わたしはウキウキで今日のメニューか?と思っていたがどうやら「あと3日は絶食やで、でもそれ終わったらワイが貴様の献立考えたるからな。そういうわけやで、よろしく」と言いに来ただけだった。
お腹は当然空腹である。
わたしは泣いた。
ご飯があと3日は食べられない。今日も含めたら4日、、、?
水も口にしてはならぬと言われ、もはやわたしは何のために存在しているのか分からなくなった。
わたしは涙目でテレビをつけたのだが、画面の中で春日が美味しそうにステーキを頬張っていたので即消した。
この4日間の記憶はない。ない。ない。
割愛する。そして5日目。やっと食料にありつけた。しかし、出たメニューは重湯という、お粥をさらにぐしょぐしょにした 米の味のする液体である。
メニューは重湯と、鶏ガラスープだった。おい、液体しかねぇじゃねぇか!!隣のばあさんでさえなんか固形物くってるよオイ!!!
殺意を抱きながらもとにかく重湯を口にしたが、元々お米そのものに味なんてないだろう説を唱えるわたしにとって重湯はただの拷問でしかなく、8割のこして、鶏ガラスープを完飲した。そしてこの日から飲みものも解禁されたため、わたしは点滴のガラガラをひっさげながらスキップで自販機へとむかった。
古かったのか、歩く度に「ガラガラガラ!キィ!!!!」という点滴をさげる棒みたいなやつは、苦情が入ったのだろうか?いつの間にか新しいものに変わっていた。ごめんなさい。
自販機で買って飲んだ紅茶は死ぬほど美味しかった。私は泣いた。
砂糖って偉大だよなぁと思いつつその日は寝た。
そしてついに退院の日。
わたしは食のありがたみと、内臓
が炎症を起こした時の痛みを経験して帰宅した。
もう二度と、盲腸にはかかりたくない。