ただ言いたいことだけを言うブログ

ただ言いたいことだけを書き連ねます。愚痴が多めかも知れません。

整形を終えて思うこと。

ある日、ゲノム編集についての記事を見かけたとき、わたしはひどくこの時代に生まれたことを後悔した。

身長、顔、体型を決めるのは遺伝子であり、それを改変するのがゲノム編集である。大元はマラリア撲滅、遺伝子疾患に対する療法として確立されたものだが、これを生まれてくる赤ちゃんに使用するのが「デザイニングベイビー」である。

人を遺伝子単位で変えてしまう。

これは人類が神の領域に達することと同等である。実際、既に動物では実験済みで「肉量が二倍になった家畜」が存在する。

 

前置きはここまでとして。

わたしはゲノム編集が確立していない時代に生まれ、その恩恵を受けれなかったを悔やんだ。

もしもあの技術が発展して、一般化すればわたしの70万は、もしかしたら不必要だったのかもしれない。こんなダウンタイム中の痛みに苛まれずにすんだのかもしれない。

パラレルワールドに執着して語ること自体愚の骨頂そのものだが、あの恐怖とこのズキズキした痛みと向き合うと尚そう考えざるを得ないのだ。

 

たかが下瞼の裏の粘膜を切って縫合した程度、なんともないと思っていた。しかし人間の身体は非常によくできているもので、わたしが日常的に使っていないと思っていた筋肉はきちんと働いていて、目を瞑ったり、笑ったりする度に重度の筋肉痛に襲われたような感覚を覚える。

おそるおそるべロリとめくってみると、白く変化した粘膜があった。

おそらくここから縫合したんだろう。

ズキズキとした痛みに疲弊する。

 

上瞼もそうだ。醜く腫れた患部、視線を上にやる度にギュッとまぶたの中を掴まれているかのような痛み。

以下に人間にとってまばたきやめをつむる、あけるという動作が大切か思い知らされた。いたい。

かといってずっと目を閉じているのも難しい。力の加減により痛みが変わるので、ちょうどいいまぶたの閉じ方を模索せねばならない。

その頃にはすっかり疲れて眠りの落ちているのだが。

 

最も怖いのは目尻切開した部分だろう。

朝起きると体液や涙が固まって目尻側が固まってしまうのだ。それをゆっくりと綿棒やコットンで拭き取ってゆっくり目を開ける。朝からなんでこんな緊張感を味わっているのかわからない。

その上左右で腫れの具合が違うため、二重幅や目尻の下がり具合に違和感を覚えることもある。その度にわたしは胸がざわついていてもたってもいられなくなるのだ。

どうしよう。失敗したのではないか。

ずっとこの顔のままなのではないか。

 

もちろんそんなことは無い。

きちんと時間の経過とともに腫れがひいていくことも、痛みが消えることも重々承知しているのだが、やはりいざ鏡を見ると焦燥感。

それでもわたしが整形を決意し、よかったと思っているのは、心の部分が解決したからだと思う。

整形へ手を出す人たちの何割がそうであるとはわからないが、みんな一様に問題を抱えて生きている。傷を負っているのだ。それが自分の内部から負わされた傷なのか、はたまた他人から投げかけられた言動によって負った傷なのかはわからない。でも、みんな何か心に傷を抱えている。

だからこそ、整形という一世一代の賭けに出るのだ。麻酔一つをとっても安全とは言えないし、埋没法だけでも完璧に成功するとはいえない。ヒアルロン酸注射で亡くなる事例だってある。

もしかしたら今よりももっと醜くなってしまうかもしれない。

副作用や痛み、腫れに悩まされ苦しむかもしれない。

周囲の人間に否定され、また心に傷を負うかもしれない。

 

それでも美への執着をやめない。

もう気づいていただけただろうが、そこには執着するだけの理由があるのだ。

この世界には「美」が賞賛され、それがものさしにされるという部分をはばからない風紀がある。圧倒的な美はいつも人々を魅了し、「美」の文化は発展していった。その文化の一端が美容整形なのではないか。

この世界が「美」を基準の一つとしなければもっと整形は否定的なものだったかもしれない。ここまで浸透しなかったかもしれない。

その基準は少なからず人を苦しめている。これは年齢、男女ともにそうだ。

私を含め、整形に手を伸ばす人々は、そうした基準に少しでも反抗したかったのかもしれない。でも、できないからこうして整形をして、自分を慰めることしかできないのかもしれない。

 

ある人は整形は「ある意味の死だ」と言っていた。生まれ変わるという意味ではそうなのかもしれない。リセットや、やり直しに近い意味合いも含まれているし、整形によって人生が好転した人たちもいるのだからこの表現は正しいのかもしれない。

でも、わたしはそうは思えない。どちらかというと脱皮ではないだろうか?

蛇は脱皮を繰り返し、その鱗はその度に美しく、大きくなっていく。

脱皮はリセットではない。進化だ。

整形を進化だなんていうつもりは無いが、脱皮と同じようなものだと私は思う。

身体が大きくなるとか、美しくなるとかの問題ではない。ではなにか。

「自尊心」である。

整形をすることで自尊心は満たされ、大きく、美しくなる。

蛇も同じだ。小さい頃はケージを閉める音にさえびくついていた蛇が、いまでは怯えることなく、悠然とこちらを見返してくる。3回ほどの脱皮を終えた蛇は、最初に家に迎えた時よりもはるかに大きくなった。

蛇は聖書や神話において、あまりにいいイメージをもたない動物である。日本神話においてはヤマタノオロチ

聖書においてはアダムとイブをそそのかして楽園から追放させた。

禍々しいイメージを持たれやすい蛇だが、わたしは彼らを美しいと思う。

 

話を本題に戻そう。

欠けた自尊心を戻すことは難しい。

一度傷ついたプライドはなかなか戻らないのだ。女性の場合、見た目について揶揄されるのは自尊心を大きく傷つけることにほかならない。

もしもそれで傷ついている人がいるならば、整形という道を選ぶのも一つだと思う。

現代医療という手を借りて、あなたの傷ついた心に絆創膏を貼れるなら。それでいいと思う。

もちろん、痛いし苦しいし「やらなきゃよかった。」と感じるだろう。

お金の工面だって大変だ。

それでも、わたしが整形を薦める理由は、苦しんで欲しくないからだ。

わたしも他人から容姿について中傷されたときは、殺してやりたいほどの思いにかられ、何百回、何千回とそいつのことを頭の中で殺した。いろんなやり方で。

どうしても許せなかった。

苦しかった。

だからこそ、整形をしようと決断した。

もう、すべてから解放されると思ったからだ。過去からの脱却。今こそ、身に合わない皮を剥いで、剥いで、剥いで、生きてゆくべきなのだ。

ナルニア国ものがたりの第3章「朝開き丸 東の海へ」という物語を読んだことはあるだろうか?ここでは、ドラゴンにされたしまった少年が、ライオンにその分厚い鱗を鋭い爪でバリバリと剥いでもらって、無事元に戻ることができるという場面がある。

わたしは幼い頃からこのシーンが好きだった。

この少年が、私自身なのかもしれない。

分厚い鱗からようやく抜けだせたような気がする。私を救い出してくれたのはライオンの鋭い爪ではなく、医療用メスだったのだけれど。